著者は安河内 哲也さん。
大学生の方、英語に縁のある方、受験生のお子さんをお持ちの親御さんは
馴染み深い名前かもしれない。
予備校である、東進ハイスクールの人気講師でありその著書には安河内の冠がつく。
その教えるプロが書く「教え方」の本。
大変ためになった。
まずこの文章を読む人に意識していただきたいことがある。
それは、「ケトルベルの講師による読書感想文」としてよりも
「一個の社会人が、教えるということに対しこういう考えを持った文」
として読んでいただきたいのだ。
そうすれば、必要に応じてあなたにも意味がある文章となる。
人は、人とのコミュニケーションの中で情報を交換・伝達する。
その教えることの巧拙が、その人の知性や品格を現すことになるであろう。
安河内先生はけして教育学の権威であったり教員免許をお持ちであるわけではない。
しかし、私はこの本に感銘を受けたし役に立ったと思うのだ。
私は人生の中で論理的な存在でありたいと思う。
そしてロジックを大切にする。しかしそれは論理のへの愛ではなく、むしろ逆なのだ。
何かを始めようとするスタートと、ここまで頑張るぞというゴールは
他の誰でもない、「自分」が決める「感情」である。
人間は感情があるからこそ、人間たり得る。
私のケトルベルのレッスンもそのような私の意志と感情を持ったものでありたいのだ。
さて、本の感想だが
著者はまず「教える」ことの効用から説く。
秘密主義もいいが、どんどん教えることでこんないいことがあるんだよ、と。
それは、教える人の信頼向上であり、存在感の向上である。
話はもっと広がり、一子相伝より万子相伝の方が面白い、とのこと。
それがいいかどうかは私には判断がつかないが
金がとどまることが豊かなのではなく流れが滞らないことが豊かであることの象徴であるように
情報がどこかにとどまって、「俺だけが知っている」とニヤニヤした奴がいるよりは
だいぶましであろう。
教師たるもの五者たれ
30年生きてきて、この本で始めてであった言葉である。
教師は専門分野を追及する学者であり
聴衆をひきつける役者であり
相手の不安をきっぱりと切り捨てる易者であり
学ぶ場を楽しくする芸者であり
相手を分析し、それに応じた対応(教え方)をする医者である
べきだという考え方をいうらしい。
教師はいろいろと大変なことよ。思わずため息が漏れる。
いくつかルーチンに持っていける部分があるにせよ新米教師は大変である。
いきなり、五者にならねばならない。
そう考えるとネアカの人は教師に向いている。
自然と口角が上がる、自然と笑いがでてしまう。
もし迷っている人がいるならばネアカがどうかで教師になるかどうかを決めるのも
ひとつの方法だと思う。
尚、教師は医者たれの部分で心の残った文章がある。
「人によって教えることが違うのは当然だ」という一文である。
これは、良く考えれば当然ともいえるが不満を持つ受講生がでてくる可能性がでてくる。
それは教師の説明方法次第なのだろう。
その説明方法によって信頼関係が醸成され、強固になっていくのだろう。
教える側と受け手の関係について、
本文ではテイクを期待してはいけないとかかれている。
私流の言い方にいうのであれば「対等」であるということだ。
教える側はポイントを教えるし、受けてはそれを真剣に吸収する。
(言葉尻をどうこうするのではなく、本質を吸収する)
「教えてやったから礼を尽くせ」という気持ちは見透かされる。
本書で断じられているが、まさにそのとおり。
イントラとその客の関係なのだ。
なので私は「先生」と呼ばれることを嫌う。ただのイントラなのだ。
そう呼ぶことが礼儀正しいと考える人間は、何か勘違いをしているようでならないのだ。
教える内容はシンプリフィケーション。RKC流にいうならば「30秒で教えろ」となるか。
教える側はサービスのつもりで多くの情報を伝えたがる。
(人は本来教えたがりだと思う。自分の優位を確認できるから)
大まかな整理が出来ていない状態の人に、詳細な情報を詰め込んでも混乱するだけだ。
これは、過去経験したことでもあるし、目撃したことでもある。
これからも戒めとしたい。
知らずに人前で恥をかかせていないか?という話も興味深い。
私自身「これはどうよ??」という場面に遭遇したことがあり他山の石としたことがある。
やった本人は忘れていても、やられた側は覚えている。
端から見て調子に乗った教師の態度を見ることもある。
プライド・恥はだれにでもあるのだ。
人を人として扱うのは「人として」大事なことではないだろうか?
あとは具体的な内容に入る。例えば英語の音読であったり、安心感と危機感の波であったり。
しかし、ケトルベルレッスンのみならず、日常生活で誰かに何かを教えるときに
使える話である。
買って損はしないだろう。
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